名古屋に在る教会

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神の愛・永遠の命

神は世の人を愛し、永遠の命を与える

ヨハネによる福音書3:16 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、世の人を愛された.それは、彼の中へと信じる者が 一人も滅びないで、永遠の命を持つためである」。

ここの世の人は、ギリシャ語原文はこの世と同じ言葉で、罪深い、堕落した、この世を構成する 人々のことを言います。彼らには罪があるだけでなく、年を経た蛇である悪魔の毒素もあります。 ですから、彼らは蛇となりました。彼らには、蛇の形で、彼らのために死に、彼らの身代わりと して、神によって裁かれるキリストが必要でした。そうでないと、彼らは滅びます。

人は徹底的に堕落しましたが、神はなおも彼らを、彼ご自身である神聖な愛をもって愛しておら れます。なぜなら彼らは、神によって、神ご自身のかたちにしたがって、神を入れる器として造 られたからです。さらに、神はそんなにも人を愛して、ご自身の表現である彼のひとり子を彼ら に与えられました。

主の中へと信じるとは、彼を信じることとは異なります。彼を信じるとは、彼が真実であり、実際 であると信じることです。しかし彼の中へと信じるとは、彼を受け入れて、彼と一つに結び付けら れることです。前者は客観的に事実を認識することであり、後者は主観的に命を受け入れることです。

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安息への招き

人を安息へと招く主イエス

人に安息をあたえる主イエス

マタイによる福音書11:28~29 

「すべて労苦し重荷を負っている者は、わたしに来なさい.そうすれば、わたしはあなたがたに安息を与える。 わたしは心の柔和なへりくだった者であるから、わたしのくびきを負い、わたしから学びなさい.そうすれば、 あなたがたは魂に安息を見いだす」。

これは、律法の戒めや宗教的規定を守ろうと努力する労苦のことだけではなく、何か働きに成功しようとして 奮闘する労苦のことを言っています。このように労苦する人はだれでも、常に重荷を負っています。主はこの ような人々を、安息するために彼へ来るようにと招かれました。

安息は、律法と宗教から、また働きや責任の労苦と重荷から解放されることだけでなく、完全な平安と全き満足 のことを言っています。

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罪のためのささげ物となられたキリスト

世の罪を取り除く神の小羊

イザヤ書53:5~6、10、12

「しかし、彼はわたしたちの違反のゆえに傷つけられ、 わたしたちの罪科のゆえに砕かれたのである. わたしたちの平安のために懲らしめが彼に臨み、 彼の打たれた傷によって、わたしたちはいやされた。 わたしたちはみな羊のようにさまよい、 おのおの自分の道に向かって行った. 実に、エホバは、わたしたちすべての者の罪科を、 彼に負わせられたのである。 しかも、 エホバは彼を砕き、彼を悲しみで悩ますことを喜ばれた。 彼は自からを罪のためのささげ物とするとき、 彼の種を見る.また彼の日々を延ばす。 そして エホバの大いなる喜びが彼の御手の中でそれを成し遂げる。 それゆえ、 わたしは大いなる者と共に彼に分け与え、 彼は強い者と分捕り物を分ける. 彼は自分の魂を死に至るまで注ぎ出し、 違反した者たちと共に数えられたのである. しかも彼だけが多くの人のあの罪を負い、 違反した者たちのためにとりなした」。

神は十字架上でイエスを裁いていたとき、わたしたちすべての者の罪科を彼に負わせ、 イエスを神の目にその瞬間、唯一の罪人としました。キリストの死は単なる殺害ではなく、 殉教でもありません。むしろ、それは神ご自身によって、彼の律法にしたがって執行 されました。こうして、キリストは罪人の身代わりとして、身代わりの死を遂げました。 この死は神の律法にしたがった合法的なものであり、神によって律法にしたがって承認 され、是認されました。

キリストは自発的に罪のためのささげ物となりました。それは全部の罪(悪い行ない、 間違い、違犯、違 反、悪事、罪科)のためのささげ物を指しており、罪のためのささげ 物と違犯のためのささげ物を含みます。10 節後半から 11 節は、復活におけるキリスト を指しています。

人、神、キリストがみな、キリストの十字架に参与しています。人は殺害し、殺しまし たが、 神は合法的な裁きを執行し、合法的な身代わりとしてのキリストを殺して、キリ ストが罪人のために身代わりの死を完成するようにしました。さらに、キリストご自身は 進んでそのようなささげ物となりました。彼はご自身をそのささげ物とならせ、 そのため にご自身の魂を注ぎ出しました。

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人生の荒海

人生の荒海で平安と享受を与える主イエス

ヨハネによる福音書6:16〜21 

「夕方になって、弟子たちは海に下って行った.そして舟に乗り、海を渡ってカペナウムへ 向かおうとした。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らの所に来ておられなかった。 強い風が吹いていたので、海は荒れていた。二十五から三十スタディアほどこぎ出した時、 彼らは、イエスが海の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐ろしくなった。イエ スは彼らに言われた、「わたしだ.恐れることはない」。そこで、彼らは喜んで彼を舟に 迎え入れた.すると、舟はたちまち、彼らが行こうとしていた地に着いた」。

「 強い風が吹いていたので、海は荒れていた」は、人生のさまざまな悩み事を象徴します。 「イエスが海の上を歩いて」は、主が人生のすべての悩み事を支配することができること を表徴します。彼は悩ます人生の波の上を歩くことができます。またすべての悩み事は彼 の足の下にあります。

わたしたちは主を、わたしたちの「舟」(結婚生活、家庭、事業など)に迎え入れ、 人生の旅路で彼と共に平安を享受する必要があります。

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人の霊の創造

神は人の中に霊を造られた

創世記2:7 

「そして、エホバ・神は土のちりで人を形づくり、その鼻の中に命の息を吹き込まれた. すると人は生きた魂となった」。

ここの「息」のヘブル語は、「ネシャマー」(neshamah)。 箴言第 20章 27 節では「霊」 と訳され、人の体の中に吹き込まれた命の息が、人の霊となったことを示します(参照、 ヨブ 32:8)。人の霊は人の内なる器官であり、人が神と接触し、神を受け入れ、神を内容 とし、神を人の全存在の中に吸収して、命またすべてとする器官です。

それは特別に神によって形づくられ、神の聖なる御言の中で重要性において天と地と同列です(ゼカリヤ 12:1)。 人の霊は人が神を礼拝し、神によって再生され、神に結合されて、人が神との有機的結合 の中で歩き、生き、神の定められた御旨を完成するためです。人の鼻の中に吹き入れられ た命の息は、神の永遠の命でも神の霊でもありません。

主が復活の日に聖霊を彼の弟子たちの中に吹き込むまで、人は神の霊を受けませんでした。 それにもかかわらず、人の霊が神の命の息から出て来たので、それは神の霊ととても近い のです。ですから、霊なる神と人の霊の間には伝達があり、人の霊は神と接触し、神と一 になることができます(ローマ 8:16、Ⅰコリント 6:17)。

人の霊の内側には三つの機能があります。良心は、神が何を義とし、何を罪定めするかを、 人が知ることができるようにします。交わりは、人が神と接触し、神を礼拝し、神と交流 することができるようにします。直覚は、人に神の直接の感覚と、神からの直接の認識を 与えます。

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霊の岩・霊の飲み物

真の岩としてのキリスト、霊の飲み物としてのキリスト

コリント人への第一の手紙10:4 

「みな同じ霊の飲み物を飲みました.すなわち彼らは、彼らについて来た霊の岩 から飲んだのです.そしてその岩はキリストです」。

これは旧約聖書の出エジプト記第17章で、裂かれた岩から流れ出た生ける水の ことを言っており、十字架につけられて復活したキリストから流れ出たその霊を 予表します。それはわたしたちの、すべてを含む飲み物です。わたしたちはみな、 レースを走るために、同じ霊の飲み物を飲むべきであって、すべてを含む霊以外 のどんな物も飲んではなりません。

神の選びの民のために打たれ、裂かれて、生ける水を流し出した岩は、物質の岩 でした。しかも使徒パウロは、それを霊の岩と呼びました。なぜなら、それは神 に打たれて裂かれ、命の水を流し出して、信者たちの渇きを満たすキリストを予 表したからです。ですから使徒は、その岩はキリストであると言いました。それ は、キリストを表徴する霊の岩であったからこそ、イスラエルの子たちについて 来ることができたのです。

これは、真の岩としてのキリストが、彼の信者たちについて来られることを示しています。

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